最近ふと思ったのは、LCC(Lydian Chromatic Concept)などでいうingoing/outgoingなんかでも、その人の耳がどこまでをingoingと認識するかというのはその人の属する文化圏──要するに音楽的経験に重く依っているのではないかということである。
まぁそれはそうだよね、最初から分かっていたはずだけれど、なんか最近になって急にそれを悟った気がした。
「ドレミファミレド、ミファソラソファミ」を正しいメロディーだと教わった幼児は、「ドレミファミレシ」などとやると「外れている!(つまりoutgoingだ)」と感じるに違いない。しかしジャズ慣れした大人が聞くと「(あまり良いメロディーとは言えないにせよ)よくある進行だ(つまりある程度ingoingだ)」と感じるであろう。アラビア地方の人々にとっては血の中に流れているといってもいいくらい聞き馴染みのある(ingoingな)「ド♭レミファミ♭レド(両方レに♭)」という音階は、いくらジャズマンであっても我々日本人にとっては本来の状態から外れた(outgoingな)奇妙な音遣いに聞こえる。
それでいくと、同じジャズマンの間でもどこまでをingoingと捉えるかに差があってもおかしくない。ジャズ歴3ヶ月と2年では9thや6thといった単純なテンションノートに対する馴染み具合に明らかに差が出るであろうし、ニューオーリンズ風を極めようとしている者とロバート・グラスパーの信奉者では何をingoingとするかに(哲学レベルで)相違が認められるに違いない。
ここまで来て、そもそも「外れている(out)」と「遠ざかっている(outgoing)」は別の概念ではなかったかということに気が付いた。幼児が感じる「外れている」は正解不正解でいう不正解であって、outgoingとは少し違う。例が悪かった。
まぁとにかく大義は伝わっているのではないかと思う。適当な議論ですまない。
で、そんな十人十色千差万別のingoing/outgoingの世界で、よく一緒にセッションなんてやっているものだ、と改めて思った次第である。
何をingoingと感じるか、という切り口で語り始めたが、言い方を変えると「何をどれくらいoutgoingに感じるか」ということである。場合によっては、遠すぎるとout(不正解)である。LCCの言い分は、outな音などなく、すべての音がingoingかoutgoingのどちらかに緩やかに分類されるということだが(解釈が間違っていたらすまない)、Cの長三和音に対してF音を載せるのは何がどうひっくり返ってもoutだという意見も、それはそれで正しいはずだ。その人にとっては。
俺は俺のingoing/outgoingをとりあえず守って(たまには攻めて)生きていこうという話である。